『HEE-STORY 1978』#3〜リッケンバッカー抱いて歌えば♪

オレはたぶん元々は左利きだ。ガキの頃に字を書くのは右にしたけど、箸を使う手は左のまま。
で、絵を描く時は左で、スポーツ全般は左。
書こうとすれば左でもそれなりに字が書けるし、まあ両利きみたいなもんだね。
左利きの方々なら経験があると思うけど、ハサミとか缶切りとか何かと右利き用のモノを
使う度に何かと不便を感じることが多いのだ。『情熱大陸』でもそんな光景があったでしょ?(笑)
そんな不便な経験を多々してきて、オレはエレキ楽器を初めて手にする時に、
「こりゃ絶対右利き用のベースを買わないと、後々また不便だったり苦労したりしそうだ。
ジミヘンとかマッカートニーとかカッコイイし憧れるけど、惑わされちゃいかん…」と、
右利きとしてベースを弾き始めることにした。
完全に左利きってワケじゃないのが功を奏して、普通に練習し始めた。
まず左利き用の楽器は値段が高い。しかも本数も右利き用に比べたら圧倒的に少なく、
何なら特注しなきゃならない。当然数ヶ月待たされる。それは海外も同じ状況みたいだ。
色んなヴィンテージ楽器を入手してジャンジャン弾きまくっている昨今も、
40年前に右利きのベースを手にして本当に良かったなと実感。
元々「両利きっぽかった」のもラッキーだったけどね。これもまた運命の分かれ道だね。


’90年代にイエローモンキーのオフィシャルファンクラブの撮影をした時のショット。
「サムライ、リッケンバッカーを持つ」の巻。
この時も最初に買ったベースがリッケンだったってことでの撮影だったんだよな…

さてさて1978年・秋。
初めてのバイト代じゃ足りず、親にカンパしてもらってやっとベースを買ったぐらいだから、
当然同じタイミングではベースアンプは買えず。
残念ながら本格的にアンプから音を出しての練習はまだ出来なかった。
アンプから音を出さずにエレキ楽器を練習するなんて、エレキ初心者のオレとしては
手に入れたばっかりなのに正直イマイチ盛り上がらなかった。
それでも時々チープなラジカセに何とかプラグインして、ショボい音で鳴らしてたっけ。
無理矢理突っ込んでるので、ベースの出力がデカくて何台かラジカセがぶっ壊れたなー…
曲っぽいのは当然弾けず、超初歩的な教則本に載ってるドレミファソラシド的なヤツに
チャレンジしてはメゲての繰り返し。その本に課題曲としてキャロルの
『ルイジアナ』の譜面が載ってたけど、譜面なんて読めないしアップテンポな曲調だし、
最初のうちはまったく弾けなかったなー。しょーがないからもう好きな曲に合わせて当て振り(笑)
ホーキがホンモノに変わっただけだったじゃん(笑)
でも毎日学校から帰宅後にベースを眺めたり磨いたりしてたよ。

「ベース弾きながら歌っちゃおうじゃないの!!」と意気込んだのもつかの間。
「まずはちゃんとベースを弾けるようにならなきゃ。ヴォーカルの練習はその後だ…」と、
以後毎日のようにベースの練習に明け暮れた。
悪戦苦闘してるうちに「歌いながら弾く以前に、まずはきちんとベーシストとしての役割を担わなきゃ。」
となり、ベース&ヴォーカルは一旦断念し、ベースに専念。
途中何度かベース弾きながら歌ったこともあったし、
勿論その後のどのバンドでもコーラスは担当して部分的に弾きながら歌うことは多々あったけど、
完全にベース&ヴォーカルとしてステージに立ったのは、2003年のHEESEY WITH DUDESとして、
ということになるんだな。その時オレ、40歳。
15歳でジーンやマッカートニーや永ちゃんに影響を受けてベース&ヴォーカルに憧れてから25年後(笑) 長っ(笑)
その後2005年にH.W.D.は解散したが、HEESEYソロ名義で再々度ベース&ヴォーカルに
チャレンジし始めたのが2014年。んで、2018年現在に至る…

そして冬休み。
さすがにこの時だけは「中高一貫の学校で高校受験がなくてラッキー!」と、
夏と同じ製本工場で再びバイト。確かほんのちょっとだけ時給が上がったっけな。
貯まったバイト代で遂に念願のベースアンプYAMAHA J-35Bを購入。
アンプを入手して俄然練習をするようになったっけな。
やっぱりエレキはアンプから音を出さなきゃね。
クラスメイトが持っていたベースの楽譜を借りたりして、
簡単そうな知ってる曲をコピーし始めたりした。

今思うと何故か’78年の終わり頃になったら<KISS熱>は若干冷め始めた。
KISS自体は変わらず大好きだったけど、実際に自分がベースを買って
弾き始めるようになったら、ちょっとずつ<聴いて盛り上がる曲>と
<弾いたら盛り上がりそうな曲>っていうのが別物になっていった感覚だった。
それにこれはどんな地域もそうだったと思うが、当時はギタリストがやたら多かったのだ。
で、<ギタリスト至上主義>的な傾向があって、大概の場合ギタリストがリーダーで、
例えば「セッションしようぜ!」とかバンドで「コピーしようぜ!」ってなると、
そのギタリストが課題曲やコピー曲を決めるっていう風潮があった。
同学年のヤツらが誰かの家に集まって一緒に演奏する時もそんなカンジだったな。
なので初心者のオレは、クラスメイトのギタリスト達の趣向を元に
みんなで選んだ曲をコピーすることになった。
「まだちゃんと弾けないから簡単そうな曲にしてね」とか言いながら(笑)


2011.6.11.TYO@clubasia pic.by Hiroshi Tsuchida
TYOの時も黒いリッケンを時々使ってた。これはその当時所有していた’60年代のモデル。
色々と仕様が違うんだよね。

2015.6.27.TYO@NEW SIDE BEACH pic.by Koichi Morishima
コチラ、3年前のTYOのステージ。
今年のソロツアーでも使ったブラックスパークル&ミラーピックガードのリッケンを使用。

記憶が前後しまくったけど、こんなカンジで、オレの1978年は暮れていった。
1978年。御覧いただいたように、廣瀬洋一にとって単に思春期を過ごしただけではなく、
その後の人生に大きく影響した自分史に刻まれた重要な1年だった。
そして当然のように「廣瀬洋一のベース道」は翌年1979年に続いていった。
次回はエピローグとし’79年のことを覚えている限り簡単に紹介して
『HEE-STORY 1978』を締めくくろうと思う。
面白いと思って続けて読んでくださってるミナサマ、お楽しみに!!

2018.09.11 (Tue) 0:33:48

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『HEE-STORY 1978』 #2〜初期衝動を咲かそう Let’s Play Loud

なんせ40年前の話だから月日の記憶が前後しちゃうな…

何度も話に出てる、「オレの初期衝動には欠かせないロックバンド」・KISS。
’77年と’78年に来日したんだけど、実はオレどちらの年の公演も観れていないの。
前述の通り、’77年の武道館公演はNHKのTV番組で観て衝撃を受けたけど、
翌’78年の2度目の来日は武道館公演を観逃してるのだ。
地元の友達は数人でつるんで観に行ってて、帰りにオレんちに寄って超興奮状態で
盛り上がってたはずだから、観ようとすれば観れたのにメッチャクチャ悔しかったなー。

その後KISSは、ノーメイク時代の1988年に10年振りに再来日。
その’88年の来日以降は全回欠かさず観ている。追っかけて福岡や大阪や名古屋でも観たな。
おかげ様で’95年の来日の際には雑誌の対談でジーン・シモンズ師匠にもお会いすることが出来て、
しかも<HEESEY THE BASSMAN OF THE YELLOW MONKEY>とちゃんと覚え認識してもらってる。
2001年にはオーストラリアまで観に行ったりもした。一昨年にはバンドの再集結も祝福してもらった。
ちょいちょいインタビューとかでもイエロー・モンキーの名前も語ってくれたりね。感無量だな。

’78年の武道館公演を観れなかったことは、ある意味トラウマになったのしれないけど、
その後の人生とKISSという存在が事あるごとに密接に関わったのは、我ながら何だか運命を感じる。

少林寺拳法ではなくロックバンドを選んだのも、今にして思えば1978年の運命の選択!?(笑)
40年前にオレがもし少林寺拳法を選んでたら、どうなっちゃってたんだろ…

オレをベーシストとして誘いに来た地元の同級生とのバンド結成は、結果的には実現しなかった。
彼らは高校受験を控えてたから、時期的にバンド結成は高校入学後の予定だったのかも。
でも中高一貫だったので高校受験はなく中3になっても呑気でいられたオレは、
「遂にキたか!?」ってカンジだった。自発的ではないにせよ、ヤツらがオレに炎を灯してくれた。
「オレがハマってるバンドでベーシストって言えば勿論ジーン(KISS)だし、
マッカートニー(THE BEATLES)だし、永ちゃん(CAROL)じゃん!!」って超盛り上がった。
共通項は3人共ベース&ヴォーカル。しかもコンポーザーでフロントマン。
「そんなにカッコイイパート、オレがやっちゃってイイのか?」って恐縮する反面、
「大変なパートを引き受けちゃったな」って気持ちもあった。
でも既にやる気マンマン。まさに「♪天真爛漫 やる気マンマン」だ(笑)
エレキの弾きマネする時は、中ぐらいのホウキから長いホウキに変えたぜ(笑)
「よっしゃ、ベース弾きながら歌っちゃおうじゃないのー!!」なんて、
ベース&ヴォーカルを目指し、気合い入りまくりでヴォルテージ上がりまくりだったな。

ただまだその頃はベースとギターの区別もつかなかった。ルックス的にもサウンド的にも。
「ネックが長くて弦が4本のヤツだよ!」とクラスメイトに教えてもらったけど、
音の聴き分けもままならない状況(笑)
でも地元の幼馴染が誘いに来たあの夜以来、俄然ベースという楽器に興味津々だった。
悪友とつるんで池袋や御茶ノ水の楽器屋さんに寄り道して、ディスプレイされてるギターや
ベースを舐めるように眺めて、カタログもらって家に帰ってまた眺めて。
どれがカッコイイか比べまくったり、先に既に弾き始めてるヤツらから情報収集したり、
アドバイスしてもらったりして。

迷った結果、遂にどのベースを買うか決めた。GRECOのリッケンバッカー#4001のコピーモデル。
黒いリッケン。RB700ってヤツ。もう完全にルックスで決めたのだ。
ボディシェイプがメッチャメチャ気に入っちゃって。
何度も何度も楽器屋さんに通って眺めてウットリしてたっけな。

これは、ホンモノのリッケンバッカー#4001。’72年製。今現在所有しているヤツ。
ネーミングがまたカッコイイのよ。本国では「BLACK」と呼ばずに「JET GLO」と呼ぶんだな。


コチラ、1993年。THE YELLOW MONKEY at日本青年館。『life Time・SCREEN〜追憶の銀幕』。
グレコの白いリッケンモデルを弾いている画像。この時オレ30歳。
15歳で最初に手に入れたベースと同じメーカーのモニターをさせていただいたなんて、
そりゃもう感動的だったよ。ちなみに青年館ではワインレッドの
ポール・マッカートニーモデルのリッケンも使ってるぞ。

当時のニッポンは、まだまだ「ロックは不良の音楽」みたいな風潮があったんだよな。
ウチの両親は「ロックを聴くな!エレキを弾くな!」とは全然言わなかったけど、
易々と楽器を買ってくれるようなカンジではなかった。
両親は音楽には興味がなく、家にレコードプレーヤーすらなかったし、
せいぜい演歌とか懐メロとかTVで観て口ずさむぐらいだったもんな。
なので、初めてのベースを入手すべく中3の夏休みにアルバイトすることにした。

短期間だったけどバリバリにバイトしたな。中3なのに高1って偽っての初めてのバイト。
20歳ぐらいまではいつも実年齢より上に見られてたから全然バレなかったよ(笑)
親も別に反対しなかったな。むしろ遊んでるよりイイだろうぐらいの感覚だったのかね。
地元の少年マンガ雑誌の製本工場。少年マガジンとジャンプを10~15冊ぐらいずつに
機械で縛ってまとめて、それをパレットに積み上げていくの。
単純作業だけどなかなか大変だったなぁ。お金の有り難みを知った気分だった。
すべては初めて手にするエレクトリックベースのため。

今でも覚えてるわー、リッケンバッカーモデルRB700は、当時定価70,000円。
値引きしてくれて店頭価格52,500円だった。
結局はバイト代が全額に及ばす、ありがたいことに親にちょっとカンパしてもらったっけな。
だって最初時給が450円だったもんね。そりゃあ大して貯まらないわな。


コチラは2016年。TOUR『SUBJECTIVE LATE SHOW』の時のリハーサルの画像。
’90年代後期にはホンモノのリッケンバッカーも何本か手に入れ使用してたけど、
再終結後もこうして使ってるよん。右の黒は’75年製、左の白は’78年製(運命感じるね…)。

そう、40年前のまさにちょうど今頃、貯めたバイト代と親のカンパ分を持って、
当時学校の帰りに通い慣れた池袋のイケベ楽器で黒いリッケンバッカーモデルを遂に手に入れたのだ。
リーズナブルなソフトケースにしときゃいいのに、ハードケースを買っちゃって。
運ぶの大変だったけど、なんか「バンドやってます!ベースやってます!」的な
自己主張に酔っちゃったりして。まだ全然弾けないのにね。
一貫して自意識過剰なヤツだったな。
そんな1978年の9月。人生初のベースを手にした中学3年生・廣瀬洋一の2学期が始まった…

今回はココまで。また次回、お楽しみに!!

2018.09.03 (Mon) 15:10:15

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『HEE-STORY 1978』 #1〜STRUTTER ’78

今回のサブタイトルの『STRUTTER ’78』は、1978年にリリースされた
KISS初のベストアルバム『DOUBLE PLATINUM』のオープニング曲。
メッチャ大好きな1stアルバムのオープニング『STRUTTER』のドラムのパターンに
当時流行っていたディスコ風味が加えられたリミックスだ。
「STRUTTER」って「気取り屋」っていう意味。
思えば自意識過剰で目立ちたがり屋だった(今も?)オレ自身、
まだ何にも弾けないベーシストだったけど
「1978年の気取り屋 」になりたかったのかもしれない。

1978年って、ググったら『ザ・ベストテン』とか『24時間テレビ』とかが始まった年で、
キャンディーズが解散して、サザンオールスターズがデビューした年らしい。
ミュージックシーンにも色んな変化があった頃だったんだな。
実際あの当時もガキながらも時代が変わっていくそんな風潮を感じたのを覚えてるわー。
ディスコミュージックも流行ってたな。今でも大好きな曲がたくさんあるのだ。
ディスコっぽい曲ばっかりのアーティストもいたけど、
いろんなロックバンドとかもディスコ風味なシングル曲をリリースしてたっけな。
そうそう、翌’79年にKISSは同じくディスコビートの大ヒットナンバー
『ラヴィンユー ベイビー』をリリースした。
ちなみに、「まるちゃんの赤いきつね」が発売になった年でもあるみたいよ。


ネットで見つけた当時のヒットチャート。

前年・1977年のクリスマスの頃は『KISS ALIVE Ⅱ』を聴きながら迎えたんだと思う。
時期的には10月にリリースされてたが、確かすぐに入手出来ず小遣い貯めて
期末テストが終わり次第買って冬休みに聴きまくった記憶があるわ。

年が明けて1978年。
相変わらず例の4バンドをガンガン聴きまくりながらも、ミュージックライフとかの
洋楽誌に載るようなロックバンドや、ヒットチャートに入るようなポップスの
シングル曲とかもちょいちょい聴いてたっけ。ラジオで聴いたり友達にレコード借りたり。
ギターを手に入れて弾き始めるクラスメイトも増えた。
時々みんなで集まって家に遊びに行って触らせてもらったりして。
オレはその頃どうやって操作するかも知らないレベル(笑) 弾く以前の問題(笑)
知ってる曲とかをちょっとでも弾けるなら、もうそいつはヒーロー(笑)
いつ頃からか、オレもだんだんエレキギターに興味が湧いてきた。
<聴く>だけじゃなく、<弾く>ことに対する欲求が芽生えてきたわけだ。

ちょいと話がそれるけど…
オレの将来を案じて両親から中学受験を勧められ、ほぼ無理やり入学した私立で附属の男子校。
中1の頃は新しい環境に順応出来てなかったな。その後高校も含め6年間も男子校だったし。
バリバリの東京下町で幼少期をすごしたオレは、ある程度以上のお金持ちの
“プチ・ボンボン”が通う私立校には中々馴染めずにいた。少なくとも中学時代前半は。
「何か事件でも引き起こして退学にされて幼馴染の通う地元・足立区の
公立の中学に通えたらどんなにハッピーだろうか?」なんていつも妄想してたな。
まぁそんな思春期の大革命を起こすような度胸もなかったんだけどね。
それでもやっぱり徐々に慣れてきて友達も増えて、何とか学生生活を送ってた。

ガキの頃から何やってもどんな趣味も中途半端だったから、
「何かひとつのことを極めたかった」んだよな。
勉強もいくら頑張っても上の下か中の上ぐらいだったし、部活のバスケ部も弱小クラブだったし。
「コレをやらせたら誰にも負けない」っていうぐらいの何か。
心底夢中になれちゃう何か。自他共に認めるブッチギリの何か。
精進して磨き上げてキレッキレに極めちゃう絶対的で圧倒的な何か…
多感な時期だからか、そんなとりとめもない欲求が渦巻き出した。

これはこういう場で初めて書くことかもしれないけど、実はオレ、
「少林寺拳法を習いに行くか、何かエレキ楽器をやるか迷ってた」んだよなー。
思い返すと「なんだ、その二択!?」って笑っちゃうけど、結構マジで悩んでた。
当時オレの周りではブルース・リーやいろんな格闘技とかもブームだったりして、
クラスメイトにも習いに行き始めたヤツもいて。少林寺とか極真空手とかボクシングとか。
オレもミーハーなとこあったし、なんせとにかく「何か極めたかった」んだよな。

その頃になると地元の公立中学でもエレキブームが始まってて、幼馴染が何バンドか結成してた。
自分が通ってた私立校はイヤラシイ話だけど中学生のくせに金回りも良く
(オレんちは下町の洋品店で全然お金持ちじゃなかったけど…)、
マニアックに掘り下げてるロック通の音楽好きが多かった。知識もすごかったな。
コピーするバンドやジャンルや楽曲も中学らしからぬ生意気でホンモノ志向だったっけな。
地元の公立校はもっとポピュラーで初歩的なバンドをコピーしてた。
オレはミーハーなところもマニアックなところもあったから、
自分基準でどっちもアリだったけどね。

そんなある夜、地元の小学校時代の幼馴染達がいつものようにオレんちに遊びに来て、
「なあ、ヒーセ、一緒にバンドやろうよ!」って誘われた。
(ご存知でしょうが、オレは小学2年生の時から「ヒーセ」って呼ばれてたんよ)
「ヒーセ、ジーン・シモンズ好きだよね? ベースやらない?」って。
どうやら地元にベース志望のヤツがいなかったみたいで、
ジーンが好きなオレに白羽の矢を立てたのか?と後々解ったけど、
でも誘ってもらって物凄く嬉しかったし、超興奮した。
どんなバンドの曲をコピーするかとか、どんな楽器を買おうかとか、誰が歌うかとか、
どこで練習しようかとか、いつバンドのお披露目をしたいかとか、
深夜まで4人で熱くワイワイガヤガヤ語りまくった。
楽器も入手してないのに早速バンド名とかロゴとか考えちゃったりしてね。
何月何日だったかは忘れちゃったけど、思い出深い夜になったな。


KISSの’78年の来日記念のミュージックライフの別冊。
これはリアルタイムで買ったな。穴があくほどグラビアページを見まくったし熟読したよ。
懸賞に応募しちゃったもんな、はずれたけど…

記憶が定かじゃないとこもあるので、諸々ちょい前後しちゃうけど、
こんな背景を経て、オレはエレクトリック・ベースを手にすることになった。
この続きはまた次回。楽しんでくれてるミナサマ、お楽しみに!!

2018.08.27 (Mon) 13:50:19

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